ヒーローからヒーラーへ(注:本文中のリンクは著者引退につき現在無効です)

内なる社会運動の働きと意識の力に関するノート

A Note about the Work of Inner Activism and the Power of Consciousness

量子力学は、私たちの具象的現実とは、非常に違った世界に対する見方を提供します。わたしがコンピューターを置いている一見硬いテーブルは、実際には、がらんどうの空間であり、エネルギーや原子レベルでの運動に満ちています。物理学者が、検出器を使って、原子の粒子を見つけるときには、奇妙なことが起こります。粒子は、検出の瞬間だけ、安定した存在になるのです。それ以外の時は、粒子は、単に、特定の位置や速度を持たない、存在確率やエネルギー準位としてしか存在しないのです。粒子は、観測の行為を通じてのみ存在することになるのです。存在確率の無限の場から、意識的な観察の行為によって、場がひとつの状態に「落としこまれる」のです。意識や観測がなければ、粒子は存在しないのです。

私たちのほとんどは、光が(光の粒子である)光子の流れとしても、連続性を持った波の関数としても解釈できる、二重性を持った存在であることを知っています。一筋の光が、ふたつの細いスリットを通して輝くとき、投射したスクリーンには、光の波の相互作用を示す、明暗それぞれの帯の干渉パターンが映し出されます。

ここで、同じ実験を、光源を暗くして、光子がひとつひとつばらばらに飛び出すようにして、その数を数えられるようにします。投射するスクリーンの代わりに、ひとつひとつの光子がどこに当たったか数えられるように検出器をおきます。時間が経過するにつれ、光子の衝突パターンが積み重なっていくのですが、驚くべきことに、明暗の帯が再び現れます。どうしてそんなことがおこるのでしょうか。光子はひとつづつ飛び出すのに、まるで、その前やその後の光子のことを「知って」いくかのように振る舞い、その前やその後に打ち出される光子と「相互作用して」パターンを形成するのです。ある意味、物質も意識を持っているのです。

量子力学の物理学者も哲学者も、観測の行為によって物質を存在させる意識が介在しなければ、物質は全く存在しないのではないかと議論しています。おそらく、物質ではなく、意識こそが宇宙の根源的な構成要素なのではないでしょうか。

人間の尺度でも、同じことが当てはまるかもしれません。私たちは、外部世界を、具象的で客観的なものと認識する強い傾向がありますが、認識についての科学は、私たちは文化的バイアスを持った言語と思い込みの足場の上に世界観を構築していることを教えてくれます。もし、私たちがある現象について言葉を持っていなければ、その現象は実際にはこの世に存在しないのです。

例えば、西洋世界では、思考と感情は全然違う現象だと認識していますが、チベット仏教の世界では、認識とは別の「感情」をあらわす集合名詞は存在しないのです。仏教の精巧な心理学の枠組みの中では、すべての脳の状態は、私たちが感情と認識と呼ぶものが分離できない混合物であることが知られているのです。チベット人は、感情という言葉をチベット語に翻訳できません。なぜなら単純に分離した概念としては存在しないからです。

この翻訳の困難さは、西側の心理学者や神経学者がダライ・ラマとその助言者に最初に会見し、思考や感情や脳機能の性質についての文化間の違いを超えた理解を求めた時に明らかになりました。私がこの問題を読んだ時に、私は驚くとともに興奮しました。私の感情についての具象的現実は別の文化では全く存在しないことに驚き、世界は外部の現実ではなく、ある種の投影であるならば、すべてのものは変えられるということに興奮しました。

私たちは幼少時には、私たちは外部環境の被害者であるように感じます。だれかが私たちに意地悪をした時に、そのひとは私たちを「怒らせ」ます。知恵が育つにつれて、私たちは次第に、問題は、他人の振る舞いではなくて、私たち自身の認識と態度であることを理解していきます。私たちは、ある行動への私たち自身の判断が原因で初めて怒りを感じるのです。異なる態度を選ぶと、私たちは全く同じ振る舞いに対して、全く平気でいられます。私たちが自分の態度を変えると、信じられないほど、驚くほど、私たちの周りの世界全体が変わるのです。

人生の様々な局面において、私たちは、気難しい、厄介な人たちに出会います。学校での手に負えない生徒、文句をつけるお客、不満を持った依頼主、「扱いにくい」患者などなどです。医療では、扱いにくい患者は、私たちにとって多くの嘆きの種です。そいうった患者は私たちの助言を聞き入れませし、私たちの判断にたてつきますし、正当な理由がないと私たちが考える処方箋を要求しますし、自分自身の健康について責任を持ちません。私たちはそういった患者を「気落ちさせる」患者といって、私たちの一日を台無しにすることがあります。

ある日私は、ある思考実験をやることにしました。私は、扱いにくい患者など一体全体存在しないと仮定してみることにしたのです。もし、患者との問診がまずい方向に行くならば、それは扱いにくい患者のせいではなく、扱いにくい医師の問題であると考えたのです。医師として、私は、傾聴に失敗しているか、患者にとって必要なことを私が理解していないか、私の態度や振る舞いのどこかに患者を混乱させるところがあるのだと。そして、患者を責める代わりに、私は何かを変えてみることにしました。

ときには、私は患者に「すみません、どうもうまく問診ができていないようです。わたしはどうやら、あなたに本当はなにが必要かきちんと理解できていないようです。すみませんがもう一度始めからやり直していいですか。」

この実験を始めた時、90% 以上の「扱いにくい」患者はあっさり消えてなくなりました。しばしば、私の目の前で、患者さんが、だれかに予断なく自分の訴えを傾聴してもらえた経験に感動して、泣き出すことを経験しました。私は聖人ではありませんので、いまだに、努力を要する患者にも出会いますが、もはや「扱いにくい」患者ではありません。わたしはただ自分の態度を変えるだけで、どれだけ大きな力で世界を再構築できるかに驚きました。自分は周囲の状況の被害者ではなく、大きな力を持っていると感じました。

これが、内なる社会運動の効力、世界を変えられるようにあなた自身を変えることです。

これらの考えを振り返る時、わたしは医療システムは粒子の観点で考えるべきか、波の観点で考えるべきかとどちらだろうと思うようになりました。どちらの観点のシステムも同時に存在していて、もしかしたら、そのほかの観点の可能性もたくさん並行して存在するのかもしれません。どの観点のシステムも、存在させるには、システムを変えようと戦う必要はなく、ただ、私たちの意識が実を結ぶように持っていくだけです。

このことから、今の医療の概念は、そしておそらく、教育、司法、そして食糧生産、商業などについても、波動的というより、粒子的であることが直ちに明らかになります。医学においては、私たちは患者を分析的に小さな部分、分子のレベルにまで分解してしまいます。病気は、悪さをしている分子のダンス以外の何物でもなく、精神医療は、神経伝達物質のバランスの崩れにされてしまいます。私たちの薬物医療も分子レベルに焦点を合わせています。

医療の経営も、作業、処置、来院、スループット、効率性の会計業務に全てが還元されてしまっています。経営体制も、それぞれの長が縦割りで責任を持たされた、ピラミッド型に配置されたバラバラの箱でしかありません。患者が退院する時には、何百もの項目の請求書になります。医療は、粒子の集まりになってしまいます。

医療の実際の姿は全く違ったものです。患者は疾患ではなく、それぞれが入り組んだ繋がりを持つ、身体症状、考え、感覚、感情、認識、振る舞いの複雑の組み合わせである、心身の不調を訴えているのです。ひとりひとりの人間は、底知れない自己治癒の能力を持った、心、体、そして精神の途方もなくダイナミックな働きからなる存在なのです。医学は心身の不調を治すのではなく、治癒と回復の自然な過程を助けるだけなのです。

同じように、病院組織も、単純な組織表のようなものでは全くありません。実際には、とてもストレスのかかる空気の悪い職場環境の場合でも、非常に複雑な専門職同士のネットワークと、社会的な繋がりがあって初めて医療が提供できるのです。医療機関が今でもなんとかかろうじて機能しているのは、そうしようと医療従事者が心を砕いているからで、ほかの産業であったならば、同じような思い負担のもとではとっくの昔に崩壊してしまっているでしょう。

科学的な研究結果では、思いやり、心遣い、癒す力を持った人間関係は、患者の治療成績に対して、大半の薬物治療と同等の強い影響力を持つことが報告されています。医師と患者の悪い関係は、薬の効き目を抑えてしまいます。良好な関係は、治癒を強力に後押しするのです。

ですから、心身の不調の本質、病院組織の機能、そしてお互いを癒す関係性の質は、粒子的であるというよりも、波の性質を持っていると言えるかもしれないのです。どちらの現実をあなたは選びますか。どちらにあなたの意識の焦点を合わせますか。

心の奥底からの気遣いや思いやりへの意欲が、物質的、粒子的な捉え方からの医療と不和を起こした結果、あまりにもたくさんの医療従事者が燃え尽き症候群に陥っています。私が犯した間違いは、この現実と真正面から戦いを挑もうとしたことです。

内なる社会運動家は、もっと良い方法を知っています。内なる社会運動家は、実際には存在するにも関わらず、なかなか見ることのできない、思いやり、いたわり、そして癒しで構成された医療の捉え方に気が付いています。この医療を、目に見えるものにし、毎日の診療の現実にするには意識が必要です。私たちは自分たちの関心と目的意識を選ぶ力を持っています。

投薬や処置や観察事項の長い作業リストをもった忙しい看護婦はロボットのようになってしまいます。あるいは、その同じ看護婦が、親切さ、快活さ、いたわりと思いやりの態度を担当する患者に提供することもできるのです。どちらのやり方も、同じだけの時間しかかかりませんが、元になる目的意識や意図は全く異なります。前者の看護婦は自分の仕事は作業を効率的に全部こなすのが仕事だというでしょう。後者の看護婦は、自分の仕事はいたわることだというでしょう。

内なる運動家として、教師であれ、農夫であれ、工員であれ、官僚であれ、法律家であれ、私たちが、自分たちの毎日の仕事に対して、身の置き方を注意深く選び、深い目的意識を持つならば、私たちは自分たちの周りの世界を強力に変えることができます。もし、医療で働く人全てが、関係性や仕事の癒しの側面に意識して注意を払うならば、なんのキャンペーンも闘争もすることなく、一夜にして医療システム全体を変革することができるのです。

ですから、わたしは、自分自身の麻酔医としての臨床の仕事に、気を新たに取り組むのです。神聖で貴重で、自分の国際的なキャンペーンと同じぐらい力を持った世界を変える方法として。自分がもし医学の道をもう一度最初から始めるとすれば、多分、私は麻酔医は選ばなかったでしょう。今自分は患者との人間的な交流や癒しに関わる機会に大変喜びを感じているので、ほとんどの患者が寝ているのではなく目が覚めている医療の分野を選んだかもしれません。それでも、今現在の私も、手術室に怯えて入ってくる患者さんに、そして周りで働く人全員に、大きな違いをもたらしていることを知っています。

もしかして、これこそが社会運動のあるべき姿なのかもしれません。100 万人が街を行進するのではなく、100 万人が自分自身が望む世界を自覚してしっかり意識することです。